日記

東京の会社に勤め、神奈川からぎゅうぎゅうの電車に揺られて通うのがめんどうになり、東京で暮らすことにした。通勤に1時間かからないなんて、なんと楽なことだろう、と思った。東京に住むのは一時的なボーナスで、いずれ夫の実家のある大阪で暮らしていく前提だった。そしたら大阪行きがめちゃくちゃ早まった。

大阪に移り住んで大阪のことを頑張って学び、大阪で次の仕事を探すか、と思っていたのに、ひょんなことから京都にある会社で働くことになった。大阪から京都まで片道1時間。次に住んだところからは1時間15分。最終的には1時間半かけて通った。そしたら大阪を離れて東京に戻ることになった。大阪に「実家」がなくなったら、大阪に住み続ける理由がなくなった。

次の拠点は東京だったので、当たり前のように東京で住まいを探し、住むことにした。夫が都会育ちなので郊外に住むという選択肢ははなから存在しない。私は神奈川からまた電車に揺られて通勤するのはもう嫌になっていた。「職住近接」が夫と私の共通する住まい選びのポイントだった。

2020年、日本にコロナ禍がやってきた。あっという間にリモートワーク、地方移住、という言葉があちこちにあふれ出た。今の家は「夫婦それぞれが仕事をする」ための作りにはなっていない。工夫はしたけどどうしてもなじめず、家で無理矢理仕事をしていたらやる気がなくなった。慌ててオフィスへの通勤に切り替えて、なんとか持ち直した。

働き始めてから、「家」に「仕事」の事情を持ち込みたくないとずっと思っていた。頑張って切り分けていたら無理が生じたので、ちょっとずつ持ち込むようにした。それでもやっぱり、仕事は職場でしたかったし、職場で完結させたかった。

ところが世の中ではどうも職住近接は古びてきているらしい。私の選択肢の中に「別のところで暮らす」は存在していなかった。最初の職場が場所に強く紐づいたところで、夫の転勤も場所に紐づくものなので、行動の中に強く刷り込まれており、「職場から離れて暮らす」ことにどうにもなじまないのである。

私にとって、職場から離れて暮らすことは、家に仕事を持ち込むことと同義である。少なくとも今の家にもう一部屋突然爆誕しない限りは。誰か部屋ください。

どこか遠くで暮らしてみたい、と思ったことはあんまりない。逃げて遠くへ行きたいと思ったことはある。でもその「遠く」は「どこか遠く」であり、漠然と「北」とか「南」とか、せいぜいそれくらいの粒度だ。基本的には今いる場所がその時の「家」であり、「仕事」とイコールになってしまうとただ混乱するだけだ。

みんなそんなに移動したいのかー、と最近よく思う。

これはここまでの流れとは全く別もののエピソードだけど、私は「家から離れる」ことに強く不安を抱く。その「離れる」は、ひとつ前の段落の「逃げて遠くへ行く」と同義である。すべての日常をばっさりと切り捨てて消えること。それまでの日常から逃げて遠くへ行くこと。それはもうその日常とは縁を切り、別の日常を手に入れるということ。

私はもう、あんまり日常を切り捨てたいとは思わなくなった。移動は旅くらいの規模で十分だ。人生ぶったぎるほどのレベルじゃなくても大丈夫になれた。

だから私は移動しない。自分の意思で、今のこの東京の暮らしを続けたい。もう逃げて遠くへ行かなくてもいい。