日記(2)

昭和ランドというのはRTしたtweetの文脈なので気にしないでください。それよりここから先人の死について触れるので、おつらい方は読まないでください。改行多めにあけます。















私が「無造作に共有された死」として記憶している(繰り返し映像で見た生まれる前のものを含む)出来事がいくつかあります。

上の3つは事件です。最後の岡田有希子さんの自殺は、当時とてもセンセーショナルな扱いで報道され、今よりももっと情報番組の芸能界に関する扱いが多く、強かった時代においては、今こそいつも意識に上るであろうWHOのガイドラインなんて存在意義も真っ青の仔細な話までもが、電波にも活字にも写真にも取り上げられました。そんな中で、おそらく実際に目にした方もいるとは思うのですが、写真週刊誌に現場写真が掲載されました。本当の現場で、遺体が写っているものです。四谷のあのビルの下で。

当時、岡田さんの影響で後追い自殺をする人が出て、そこから報道の熱は冷まされたように思います。きっと内部でも見直しがあったり、いろいろあったのだと思います。この文章はWikipediaや一次資料にはあたらず書いているので詳しく書けてなくてすみません。

自殺に関する不適切な報じられ方は誘発につながるというのが一般的な見方で、きっと正しいと思うのですが、岡田さんの写真を見てしまった私は、これはやってはいけないことだ、あとに残されるすべての人の人生に自分一人の判断で見せてはいけないものを見せてはだめだ、と強く思いました。遺体を片付ける人にも遺族にも会社の人にも、当時恋人だと報じられた人にも。

最近では芸能人の自殺に関する報じられ方は非常に配慮の行き届いたものになっていると感じます。いつの間にかさらっと思い出話が語られる、そして忘れていく。昭和のような生々しく執拗な話はどこにもない。なくていいと思っています。あれは異常なことだった。

その代わりに。SNSで、病気で死に向かう人の話をうっかり見かけたりする。自分と年齢が近く、接点も少しはあった。そんな人が語る話には、報道などとは全く違う生々しさがむき出しで置いてあって、私は怯みます。怯むけど、受け取るのが礼儀かな、と思って受け取ります。影響とその範囲というのは本当に難しい。自分の身に置き換えて、冷静な判断はできるか。各種公的サービスを受け、家族への負担を減らせる時間的な余裕はあるか。身辺整理をする余地はあるのか。そんなことを突きつけられながら、なんとか今も見続けています。