話の分量が分からない人間は意識的に相手の話し方に寄り添うほかない

ズイショさんのエントリースマホでURLをはるの大変なのであとでPCから編集し直します)(エントリーのURLをはりました)を読んで、ああ私も運用でカバーしてるな、だいぶ手続き踏んでるな、とか思ってしまいました。経験と運用でカバーというか。

結局はバランスと歩み寄りだよね、っていう普通の話にしかならないんですけど(まるっきりズイショさんと同じ結論)。

で、ふと思い出したというか連想したこと。があります。

プライベートで何か話をするシーン、例えばニュースとか起きた出来事とか、において何をどのくらい話せばいいかよくわからないのです。話したくないとかじゃなくて、加減、分量がわからない。話し始めるとマシンガンのように話し続けてしまって、もう少し黙っとけばよかったのに、聞いてもらえるからといって何でも言ってよいわけではなかったのに、と今でも思うことがしばしばあります。

しかし実はこれはほぼ無に近かったのを有にした反動によるものではないかと考えています。社会人になってから、仕事の話を家に持ち込むのがどうにも面倒で、プライベートと仕事はとにかく分けるようにしていました。家に帰ったら仕事の話はしない。職場ではプライベートの話はしない。意外にうまくいったので(周囲の評判は「よくわからない人」だったかと思いますが個人の気持ちの切り換えとして)、まあまあ続いていたのでした。そして結婚してからもそれを続けていたら、自分がストレスフルな状況になったときに立ちゆかなくなったのですね。「旦那さんに愚痴聞いてもらうとかしないんですか」「しないです」「えっ」みたいな。だって仕事全部説明してから愚痴ポイントを伝えるの大変ですし。とはいえ立ちゆかないのは事実だったので、反省して、「私は今このような状況にあるので少し話を聞いてもらえないだろうか、特に反応したり意見を言ったりなどはしなくてもいいので」という前置き付きで愚痴を言うようになって、そこからぽつぽつ仕事であったよいことも悪いことも多少伝えることを学んだのでした。

小学生くらいのときから、伝えるべきことと伝えない方がいいことの区別があること、正直に言うと要らぬトラブルを呼び込むこと、そして私はそのコントロールがかなり下手であると自覚していたことにより、とりあえず黙っておけば変なことは起きにくくなると考えていました。沈黙は金。とはいえ子どもなので、いっぱしにけんかもすれば感情的な対立もあるもの。そこで「プライベートと学校は分ける」をなるべく意識するようにしていました。それが継続された状態が「プライベートと仕事は分ける」。分け続けた結果、今度はいい塩梅がわからなくなっていたようです。

最初に書いた通り、言わなくていいことまで言って失敗する、みたいなことはちょいちょい発生するけど、そこは経験と運用と学習でなんとかカバーするしかない。かなり意識的に。こちらのコンディションが悪く夫の話をまともに聞けないし流す気力もないわー、というときは「大変申し訳ないが私はひどく疲れていてあなたの話をきちんと聞く体制を整えられないし、すべて生返事になる。また、もしかしたら不機嫌そうに見えるかもしれないがそれはあなたに起因するものではないし、特に怒っているわけでもない。ただ疲れているだけなのでその話はまた今度にしてもらえないだろうか」という意味のことを説明して理解を求めます。夫がここまでしないと理解できないのではなく、私が程よい加減を理解できていないからこその説明なのです。この辺はまだうまく運用できていない気がする。